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June 1361999

 柿若葉大工一気に墨打ちす

                           木村里風子

ていて面白い仕事に、プロの大工仕事がある。鉋(かんな)をかけたり鋸で引いたり、組み立てて釘を打ったりする様子は見飽きない。一つ一つの技の見事さが、心地好いのだ。技がわかるのは、見る側に曲がりなりにも同じ作業の体験があるからで、一度も鉋をかけたことがない人には、大工の鉋かけも単純で退屈な様子にしか見えないだろう。最近は見かけなくなったが、「墨打ち」にも素人と玄人との差は歴然と出る。「墨打ち」は板をまっすぐに切るために、あらかじめ墨汁を含ませた糸で板に線を引いておく作業だ。これには「墨壷(すみつぼ)」という道具を使う。「墨壷」を見たことがない読者は、手元の事典類を参照してほしい。小さな国語辞書にも、メカニズムの解説は載っている。板の上にピンと張った糸をただ弾くだけの作業だが、素人がやると付けた線の幅がなかなか一定にならず、後で鋸を使うときに往生することになる。そこへいくと句の大工の技は確かなもので、一発でぴしりときれいな線を決めた。つやつやと照り返る柿若葉の下での作者は、大工のつややかな名人技にもうっとりとしている。(清水哲男)


June 1262003

 柿若葉とはもう言へぬまだ言へる

                           波多野爽波

語は「柿若葉」で夏。初夏の陽射しに照り映える様子は、まことに美しい。が、問題はいまどきの季節で、まだ柿若葉と言っていいのかどうか。微妙なところだ。つくづく眺めながら、憮然としてつぶやいた格好の句である。「まだ言へる」と一応は自己納得はしてはみたものの、「しかしなあ……」と、いまひとつ踏ん切りがつかない心持ちだ。俳句を作らない人からすれば、どっちだっていいじゃないかと思うだろうが、写生を尊ぶ俳人にしてみれば、どっちだってよくはないのである。どっちかにしないと、写生にならないからだ。これはもう有季定型を旨とする俳人のビョーキみたいなもので、柿若葉に限らず、季節の変わり目には誰もがこのビョーキにかかる。季語はみな、そのものやその状態の旬をもって、ほとんど固定されている言葉なので、一見便利なようでいて、そんなに便利なツールではない。仮に表現一般が世界に名前をつける行為だとするならば、有季定型句ほどに厄介なジャンルもないだろう。なにしろ、季語は名前のいわば標本であり、自分で考え出した言葉ではないし、それを使って自分の気持ちにぴったりとくる名前をつけなければならないからだ。真面目な人ほど、ビョーキになって当然だろう。掲句は、自分のビョーキの状態を、そのまま忠実に写生してしまっている。なんたるシブトさ、なんたる二枚腰。『波多野爽波』(1992・花神コレクション)所収。(清水哲男)


May 2052005

 信号をまつまのけんか柿若葉

                           伊藤無迅

語は「柿若葉」で夏。着眼点の良い句だ。まずは、シチュエーションが可笑しい。そのへんに柿の木があるくらいだから、そう大きくはない横断歩道だろう。信号を待つ人の数もまばらだ。そこへ「けんか」をしながら歩いてきた二人がさしかかり、赤信号なので足は止まったのだが、口喧嘩は止まらない。お互いに真っ赤な顔で言い争いつつも、ちらちらと信号に目をやったりしている。激した感情は前へ前へと突っ走っているのに、身体は逆に足止めをくっているのだ。その心と身体の矛盾した様子は、傍らにいる作者のような第三者からすると、とても滑稽に見えたにちがいない。しかも、周辺には柿の木があり、若葉が陽光を受けて美しく輝いている。こんなに美しくて平和な雰囲気のなかで、なにも選りに選って喧嘩をしなくてもよさそうなものを……。と、第三者ならば誰しも思うのだが、しかし当人たちにはそうはいかないところが、人間の面白さだと言うべきか。二人の目に信号は入っても、柿の木には気がついてもいなさそうである。口喧嘩を周囲の人たちに聞かれていることにすら頓着していないのだから、風景なんぞはまったくの関心外にあるのだ。すなわち私たちは、平常心にあるときは美しい自然に心を溶け込ませられるが、激したり鬱屈したりしていると、それはとうてい望めない存在であるということなのだろう。哀れな話だが、仕方がない。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 2752006

 柿若葉青鯖売りの通りけり

                           田中冬二

語は「柿若葉」て夏。花よりも葉の美しさを愛でる人が。圧倒的に多い植物だ。この葉が土蔵の横あたりで光りだすと、まさに「夏は来ぬ」ぬ実感がわく。そこに、寒い間は足が遠のいていた「青鯖売り」が通りかかった。やっと陽気がよくなったので、遠い山道を歩いてやってきたのだ。これからいつもの夏のように柿の葉陰で荷を開くのだろう。まだ青鯖は見えていないのだけれど、作者はもう、柿の青葉に照り映える鯖の青さを感じている。私にも体験があるのでわかるのだが、山国に暮らす人には、とりわけ海の魚の色は目にしみるものだ。このように田中冬二は色使いの上手な詩人で、たとえば「雪の日」という短い詩は。次のように書き出されている。「雪がしんしんと降つてゐる/町の魚屋に/赤い魚青い魚が美しい/町は人通りもすくなく/鶏もなかない 犬もほえない……」。揚句とは季節感が大いに異なるが。「雪の白」と「魚の青や赤」の対比が、実に良く効いている。『鑑賞現代俳句全集・第十二巻』(1981)所載。(清水哲男)




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